ゴー宣道場門下生メーリスから
『コロナ論』の感想をご紹介します!
昨日、無事『コロナ論』届きました。
飲食、宿泊業の方たちよりも比較的にましとはいえ、緊急事態宣言中は常に「仕事とは」「生きるとは」ということについて改めて思い悩んできたことが昇華される思いでした。
こと最近は、「1人あたりGDP」や「生産性」という言葉がもてはやされ、人間が何のために人間であるかということが随分となおざりにされてきたように思います。
そして、世の中の情報、世相の変化のスピードが加速するにつれ、それに対応する人間も全てが刹那的、場当たり的になっていったように思います。
今は制作予算の費用対効果のせいでドラマの時代劇は激減しましたが、昔は何かと「末代までの恥」や「後世の歴史家の評に委ねる」等、時代を超えて自分という個人がどう後世に語り継がれるかということに心を砕く台詞が当たり前のようにお茶の間に流れていたのですが、その気概も今はただの時代遅れになったのでしょうか。
百年、千年の人間の歴史を俯瞰し、また、自らの仕事が後世の歴史にどう残るのか。
先がどうなるか分からないないぎりぎりの緊張感の中、客観的かつ冷静な分析・判断と、慎重に慎重さを重ねた土台を元に結論を言い切るだけの蛮勇。
それらを内包した『コロナ論』は、あまりにも厚く、重みがあり、同じ時代を共有出来ている事に改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。
それと同時に、数年前に知己を得たドイツ人ジャーナリスト氏が「ジャーナリズムは必然的にセンセーショナリズムを含む」と語っていたことを思い出しました。
どれだけ素晴らしいことを伝えようと思っても、大衆に振り向いてもらえなければ、何も伝えることができない。だからこそ、大衆の気を引くためにはジャーナリズムは公正中立を旨としながらも、同時にセンセーショナリズムの要素を求められるジレンマに絶えず苛まれるという要旨でした。
ただ、人の心を弄ぶ以上、最も注意深く保持すべきはモデレーション(節制)であると、何度も釘を刺すように言っていたことが印象的でした。
ジャーナリズムの本場で職業訓練を積んできた人間たちでさえ、ジャーナリズムに常についてまわるセンセーショナリズムをどうコントロールするかに腐心しているのに対し、日本のマスコミ、専門家、政治家と呼ばれる人間たちにモデレーションというものは果たしてあったのか。
ただ目の前の一瞬の視聴率が上がればいい、ただ自分が注目されればいい、ただ票につながればいい。
モデレーションの無き刹那の数字稼ぎに奔走する様は、ただひたすら炎上や煽り文句で無責任にPVを稼ぐ道徳観のない一部のツイッタラーやYoutuberみたいな連中とどう違うのか。
むしろ自分の頭で考え、自分の名前で自分の考えを述べる市井のYoutuberの方が圧倒的に尊いとすら思えてくるほど、これまで権威と呼ばれてきた人間が尽く堕落してしまったのはなぜか。
そして、岡田晴恵、玉川徹ばかりが悪目立ちしているが、その番組の名前は「羽鳥慎一モーニングショー」であり、羽鳥慎一は自らの名を惜しむという気持ちはないのだろうか。
恐怖の前では、日本は法治国家ですらなくて良いという世相においては、せめて「名を惜しむ」という感覚だけでも大事にしたいと思わされる日々です。
「世界標準」という言葉は、日本人が最後の一線としていたはず「恥」の気持ちまで破壊してしまったのかもしれない。
『コロナ論』、これからも二度三度、読み直しては日々の生活に落とし込んでいこうと思います。
小林先生、よしりん企画の皆様、改めて素晴らしい本をありがとうございました。
同時代を共有出来ていることへの光栄を噛み締めております。
(ムーラNさん)
玉川徹など、あれだけ何度も「国民全員検査」を
繰り返し主張しておきながら、
それをヌケヌケと「なかったこと」にして、
「未だにそんなこと言っていると思われているということが心外ですよ!」
と憤慨して見せるほどの「恥知らず」なことを
平気でやれるくらいだから、
間違いなくその時その場のことしか考えていないはずだし、
言った言葉はその場で消えると思っているに違いありません。
ほとんど安倍晋三と同じです。
息をするように嘘をつける人なのでしょう。
そんな屁よりも軽い言葉と、
歴史に残す覚悟で書籍に刻んだ言葉、
どちらが勝つかは明白です。
デマ恐怖を煽り、日本の経済・文化・社会を
破壊した者たちの名は、日本人の「恥」として
後世まで伝えられることでしょう。